お金について考えるブログ

皆さん使ってるお金について考えるブログです。

最終話-いつしか人はお金だけを見るようになり、金の亡者となる。

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「金だけを見るな、その手にした金が何で出来ているかを見ろ」


私も、何故か手元に50万円あったりすると気分が大きくなって、何でも来い! って感じになる事があります。 不思議ですねお金の力って。

人はありとあらゆる物をお金という物差しで測るうちに、お金で全てが何とかなると誤認してしまいがちです。 あくまでお金で測れる物は平均値=マクロ的な視点での話で、個人の経済では当てはまらないはずなのですけど。 長い間のお金に苦労した経験が蓄積し平均化される事で、それを実感として感じ確信に至るんでしょうね。 

「お金さえ有れば良い」、「お金を集めれば人生バラ色」、そういう幻想に取り付かれてしまった人を、拝金主義、金の亡者、お金に使われる人などと揶揄し、馬鹿にする方もいらっしゃるかもしれませんが、実際に1億円分の一万円札を目の前に置かれたら、皆さんもそうなると思いますよ。

そうやって人は知らず知らずのうちに、お金だけを見る様になり、そのお金が何で出来ているかを考えないようになってしまいがちです。 酷い人になると、お金を得るために、自分の身内や自分の友人関係を犠牲にしてお金を得ようとしたり、暴力や犯罪に手を出してしまう場合も有ります。  そういった類いのお金を得るために、社会的な信用を失ったり、人間関係を失う事で社会的に孤立してしまっている事も気が付かないままに。 

私も目の前に大金を置かれてしまうと、きっと理性がぶっ飛んでしまって、目がお金のマークになっちゃってしまう人だろうと思ってます。 なので、自分が手にしたお金が何で出来ているのかを考えるようにしています。

「金だけを見るな、その手にした金が何で出来ているかを見ろ」

15ー給料や報酬は自分を社会に映した鏡

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報酬は自分を社会に映した鏡の様な存在だと思います

皆さんは自分の給料の額に満足してますか? もうちょっと給料が多いと生活が楽になるのに・・。 欲しいものが買えるのに。 などなど、欲という物には限りが無いことが多く、そして一旦得てしまった生活レベルを手放すのはとてつもなく苦痛を伴う事が多いです。 初めから知らなければ欲という物は無いはずなのですがね。

皆さんが考える満足のいく給料額というのは、たいていの場合、その人の両親の生活や、周囲の友人知人の生活レベル、あとはテレビなどで出てくる登場人物の生活などと比較して、同じ程度の生活水準を望んでいるのでは無いでしょうか?  

その一方で会社や顧客から得られる報酬額は会社や顧客が皆さんに付けた価値です。 例えば社会的に重要な役割や貢献をしている人には多くの報酬が支払われ、そうでも無い人にはそれなりの報酬となります。 商品で言えば、良い商品を作ったり販売している人への報酬は多くなり、そうでも無い人はそれなりになります。 なので言い換えれば得られる報酬というのはその方の社会の中での役割の重さ、社会とのつながりの強さを示していて、自分を社会という鏡に映して見た時の自分の大きさを示しているのだろうと思います。

給料に対する望みの大きさと、実際に得られる報酬の関係は、セルフイメージと、社会という鏡に映る自分の姿の関係なんでしょうね。 たまには別の鏡に自分を映してみるのもよいですが、やはり大抵の鏡はリーゾナブルな画像をうつしている事が多いです。 写りの悪い鏡の前には、人は自然と立たなくなりますから。 

皆さんはお出かけしたりするときに、必ず鏡の前に立つと思うのですが、時々は鏡の前にたって、着衣を直すように、時々は自分の生活や欲について見直して見る機会も必要だと思います。

 

 

14-何を買おうか迷うのはいくらでも出来るが、お金を払って購入できるものは一つだけ

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何を買おうか迷うのはいくらでも出来るが、お金を払って購入できるものは一つだけ

例えば皆さんの手元に1万円があったとします。 その1万円で買える可能性があるものは色々ありますよね、それこそ無限の商品があります。 しかし実際に購入出来る1万円の商品は1個だけです。 お金を使うと言う事は多くの可能性から一つを決断し選択する事と同じです。

人はいろいろな決断を迫られるときに、迷いそして一つの事を決断します。 よく、天使と悪魔が出て来て葛藤する場面が物語などで出て来ますが、単純に2つの事だけでなく、もっと沢山の選択肢を無意識に常に選択し続けています。厳しい局面に立たされると、特に悪魔の様な選択の可能性も思い浮かべてしまい、そんな自分が嫌になる方も多いのでは無いでしょうか? でもそれは誰もが選択肢として思い浮かべるものであり、その悪魔の様な選択をしなければ、その人の心は健全なのではないかと私は思います。

人は嘘をつくことがあります。 例えば人前では善人で居ようとして、対面を整えるために嘘をついたりします。 本音や建前を持っている事も多く、大人になればなるほど、嘘の中に本当が巧妙に隠されていて、その嘘は外面からは解りにくく、本人すらも意識しないようになっていることがあります。 なので私は他人と付き合うときに、あまり他人の言葉を信用しないようにしています。 同時に自分の言葉も同様に簡単に信用して欲しくはありません。 私が他人の人となりを判断するのに重要視しているのは行動です。 多くの選択肢から一つを選んで行動する、行動には嘘が無いからですね。 

人の行動は外からは推し量ることが難しく、その人の一つ一つの決断の本当の意味を知るのは難しいです。しかしその人がお金を何に使ったかはとても解りやすく、その人の人物像を教えてくれる事があります。 その人が使ったお金がその人の決断の意味を教えてくれるからです。

13-借金は自分への信用をお金にする行為

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皆さん一生のうちに一度は借金をするんじゃ無いでしょうか?

皆さん一生のうちに一度は借金をするんじゃ無いでしょうか? 私も何回も借金してます。 住宅ローン・車のローン・学資のローン・リボ払いなどなど、借金にも色々ありますよね。 借金には簡単に誰でも借りられるけど利子の高い物や、利子は安いけれども審査がとても厳しくてなかなか借りられない物もあります。

借金というシステムは株のシステムとちょっと似ていますよね。 ただ借主が個人的な理由でお金が必要と言う状況で使用され、その使用目的に将来性があるかどうかという点が余り加味されない点が株とはちょっと違う気もします。

私は銀行員やローン会社の社員ではないので、貸主側から見た融資がどういった基準で借金の可否がなされているのか解らない部分もあるのですが、恐らく年齢や、今までの借金歴と返済履歴、家庭環境、持ち家を含めた総資産、その借主の健康状態や年齢、職歴、そういったものを見て融資の可否を判断しているのではないでしょうかね。

借金というものは私の実経験から借主側から見ると、それまでの自分の社会的立場や社会的信用をお金にしている様に感じました。 自分の社会的信用を売ってお金にし、返せなければ社会的な信用を失い、逆にきちんと予定通り返済完了すると、借金を返済したという実績からさらなる社会的な信用を得ることになるという、少し不可思議な雪だるま式システムの様に思います。 借りれば借りるだけ沢山の借金が出来て良いと思われる方もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。

借金は信用を売ってお金を手にしますが、社会的な信用を得る絶好の機会を得たのと同じで、きちんと返済するとさらに信用を得ることが出来、更に多くの借金を得ることができる。 しかしそれをどのような理不尽な理由であれ、履行できなければ全ての信用を失い、今までと同じ生活を継続して行くことが出来なくなります。

一生のうちで一度も信用を失った経験の無い人はその信用の重みを軽んじて借金をしますが、失った信用を取り戻す努力を経験された方はその苦労の重みを実感していて、借金に対してより腰が重くなる傾向があるんじゃ無いでしょうか? 信用は得がたく、そして失うのは一瞬で全てを失います。 「ご利用は計画的に」ですね。

 

12-将来の可能性をお金に換える行為:株

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株券は本来企業の将来に投資するという意味合いで始まったものでした。

株に関しては私自身なじみがないですし、きっともっと詳しい方に言わせると大分と見当外れな事を申し上げるかもしれませんが、ご容赦ください。

株券は会社が不特定多数の人から多くの資金を集めるために作られたシステムで、その資金で作られた商品の利益の一部を株主に還元すると言うシステムです。 お金を持っていても使い道が無い人が、会社の将来の可能性に投資し、その結果として利益を享受するわけです。 単純化すると会社は将来の可能性を売って資金調達としていて、将来の可能性をお金に換えている事になります。  

そのままならば比較的理解しやすい構図であるのですが、人は更にその株式を市場の中で売買して価値をつけるようにしてしまいます。 またさらに、元本を担保しないで見かけ上多くの株を運用する信用取引や、一定時間後に売買を確定したやりとりをするデリバティブ取引などを運用する事で、より株式市場で短期的に利益を出しやすい様になりつつあります。 もちろんその代わりに失う物も大きくなる訳ですが・・。 

こう言った株式市場は大きな目で俯瞰的に眺めると、お金の流れを大きく、そして速やかに行う効果があり、必要な資金が必要な場所に到達しやすくなると言うメリットがあります。 お金は血液に例えられますが、こう言った株式市場は血管の様に収縮したり拡張したりしながら、必要に応じて適切な場所にお金が到達しやすくしているとも言えると思います。 だたその血管も投資家の資財を消耗して運用しているため、いろいろな弊害があることも事実でしょう。

細かい事は色々あるのでしょうけれど、企業の将来に価値を付けてお金に換えていると言えるでしょう。

11-命の価値をお金で測る

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命に値段を付けることは出来ませんというのは建前で、実際に多くの人が命の価値をお金に換えています

過去の章で、労働で得たお金は命の結晶だと言うお話をしました。 しかし、働いている人達がそれを実感する事はほとんどありません。それはほとんどの人が自分の死を今で無い遠い未来の事だと思っているので、命がお金に置き換わっていると実感する人はいないでしょう。 しかし、人は自分の死を目の前に突きつけられると、よりリアルに自分達の命がお金に置き換わっていると言う事を理解し、その意味を重く受け止めることになります。

一番多い状況は生命保険の契約などの際に実感されるのではないでしょうか?
生命保険は被保険者が死亡した際、その方が標準的な寿命を全うした際に一生かけて稼いだで有ろうお金の総額と、その人が消費したであろう生活に必要な総額を引いた値を保険の総額とする事が多いでしょうね。 掛け金が高ければ保険金の額も大きくなりますが、被保険者が契約期間に死亡しなかった場合はその掛け金は無駄になります。 一方で保険会社は人が死亡するリスクをその際に支払われる額、そしてそれらの会社を維持管理して行くのに必要な経費を計算して、掛け金を算出しているはずです。 こう言った命をお金に無理矢理変換する行為は、生命保険だけででなく、殺人事件などで生じた被害者家族などへの賠償金の計算にも使われます。 

日本の様に平和で安定した社会では当然、「人の命はお金では買えない」と言うのが良識を持った考え方なのでしょうけれど、いざ人が死んでしまった場合、人の命に無理矢理に標準化した価格をつけようとします。 この行為を詳細に解説してしまうと、きっと多くの人を不愉快にさせると思うので、あえてこのブログでは記載しません。 人の命に価値を計る行為は、実に多くの矛盾を全て無かったことにして、人は自分の命や他人の命にお金という尺度で価値を算定しようとします。 そしてそれは自分達が意識しないだけで、皆さん日常的に自然にやっている事でもあります。   

10-あなたが手にしたお金は、何でできているか?

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貴方が手にしたお金は、元は何で出来ているか考えた事ありますか?

皆さんから見ると、労働で得たお金は命の対価としてもらった当然の報酬と言えます。 しかし、そのお金は経営者側から見ると全く違う物となります。 皆さんがもらったお金は一体なにでできているんでしょう? 皆さん考えた事ありますか? 経営者になると、顧客がお金を支払う姿が見えてきます。 相手が大きな会社だとちょっと分かりにくいかもしれませんが、個人が顧客の場合よく考えると解ると思います。

個人の顧客が払う金銭は確かに自分達の売った商品の対価ではあるのですが、そのお金もまた元をたどればその顧客の命の結晶・記憶の結晶でもあります。 そうやって搾取された命の欠片が、会社全体でまとめられて、給料と言う形で社員に支払われる時には、平均化されて命の欠片という実感を伴わずにやりとりされることになります。 お互いに命の欠片をやり取りしたわけですから、それは何も悪い事では無いのですが、その価値がお互いに対等だったかどうかは、常に意識しておかなくてはならないだろうなと思います。 

そして経営者から見ると給料にはもう一つの側面があります。 社員達は会社を運営するために大事な人達で、その協力無くしては会社は成り立ちません。経営者は口では綺麗事を言い繕う事ができますが、彼らが本当に何を考えているかは、人事と給料で解ります。 つまり経営者は理想を語るのではなくて、人事と給料で社員に意志を示すべきで、それによってのみ社員の信頼を勝ち取事ができる訳です。 

経営者側から見た給料の内訳は、過去の経験実績(=信頼)・現在の会社への貢献・その2つを合わせて見たときの将来への期待の3つの成分で出来ています。 昭和の時代は過去の実績に比率が多く問題となっていましたが、外資系の企業の多くは現在の会社への貢献と将来への期待に比重が多く割かれる傾向にあります。  若い方々には残念ながら信頼と期待がありません。 勤めはじめたばかりの人は、熟年のちょっとヨレヨレのサラリーマンに比べて、将来への期待があるはずだと思われる傾向があります。 でも少々解りにくいですが将来の期待は就職当初はとても小さく、その期待を達成する事によって生じる実績と信頼によって肥大してゆくため、過去の実績と将来への期待は区別する事が難しいのですね。